心が鈍感になること
新型コロナの影響で宿題がわんさと出ている娘。
今回ばかりはタダならぬ休みと感じているのか、少しはやる気になったのか、少しずつこなしているようです。
小学校の頃は、学校であった事をあまり話さない子どもでした。
宿題をやらないと決めたのに、最後は担任の先生の空気を読むかのように、少しやっていたのです。私が、担任の先生の考えがおかしい、やらなくて良いなどと言っても、その雰囲気に乗って悪口を言うわけでもなく…。
親と先生の板挟みになっちゃってるんだろうなと不憫に思っていました。
実は、元担任の先生がある事で注意を受けたと聞きました。
私は、先生は承認欲求が強く、自分の満足の為に働いていて、生徒の本質を見ようとしていなかった事、どんぐりを最後まで出来なかった娘と私は、本当に自分のために学ぶということはどういう事か、私はどのように働くことが本当に自分のためだと思うのか、を何度か話しました。
少しずつ、元担任の先生の事を話すようになりましたが、小学校の頃のことは記憶に無い事も多く、娘の小学校の思い出はどうなっているのかと感じました。
今でこそ、自分で考えて、自ら行動している様に見えますが、中1くらいまでは、細々とした手先を使う努力がイヤで、中2になってからやっと、少しずつ宿題も「こなす」ようになりました。決して力を入れているわけではありませんので、普通の範囲に入ったところで出来るようになったと言えます。
自分で考え、決定し、行動するという状態はこういう事なのかと、今、思います。
そのように出来る状態として、自分はこれで良いという自己肯定感が存在しなければならず、私は娘に伝えたつもりであっても、小学校教育という強い力には、勝ることができなかったのだろうと感じます。
小学校教育で成績が良いから、シールをたくさんもらえたから、先生の言う通りに出来たからと褒められているようでは、恐らく三分の一程度の子ども達は、娘の様に心を鈍感にすることで対応しているでしょう。
一割程度の子供達は、先生の手を煩わせるという方法で自己表現が出来ているでしょう。しかし、自己肯定感はなく、自分は出来ない人間であると思い込んでしまっているでしょう。
うちの娘も、自ら思う「キャラ」があるようで、バスケ部の主将という役割をあたえられなければ、「キャラ」に自分が作られてしまっていたかもしれません。
小学校時代が全てではないし、ギャップは飛躍的な成長を感じるもとでもありますから、これはこれで経験にはなります。
偏差値に価値観を影響されなければ良いのだろうと思います。
しかしやはり、無から作り出す能力、俯瞰と仰望を繰り返す力など、まだあまり余計な知識のない頃に鳥の目、虫の目、魚の目、コウモリの目のような体験をさせてあげられなかった事は、本当に残念です。